3月下旬、東京を中心とした一部地域において多くの商品が棚から姿を消した。オリンピックの開催延期が決まり、政府や東京都が外出自粛要請に向けて大きく舵を切ったのを契機に、多くの人が急速に警戒心を高めることになったからだ。それまで政府は「持ちこたえている」として、一斉休校を延長しない方針を決めるなど、感染拡大がそれほど進んでいない印象を与える言動を繰り返してきた。それが急転換されたのだから人々がパニックを起こすのも当然のことだった。感染爆発の危機が日に日に進行していたことは明らかだったのだから、政府も専門家会議ももっと早期から警告を発しておくべきだった。そうすれば人々は少しずつ準備ができたのだ。ただでさえ品薄の傾向が出始めていたところ、こんな乱暴なことをしてしまっては、小売店の棚が空っぽになっても何ら不思議ではない。
その後、政府は買いだめを控えるよう促すメッセージを発し続けている。農林水産省、経済産業省、消費者庁は連名で、食料品は「十分な供給量を確保しているので、 安心して、落ち着いた購買行動をお願いいたします」、「過度な買いだめや 買い急ぎはしないでください」といったメッセージを発信した。スーパーマーケット協会も、東京都トラック協会も、買いだめを控えるよう訴えている。しかし、それから随分時間も過ぎて、人々の集団心理も一時のパニックから次の段階へとシフトしている。小売店も物流業界もメーカーも状況に対応するための十分な時間を確保することができたはずだ。そこで「いまこそ買いだめをしよう!」と私は言いたい。
非常時に買いだめをしないのは異常なことだ
買いだめを促すことの最大のメリットは、人々の外出を少なくできる点にある。少しずつしか買わなければ、毎日のように買い物に出なくてはいけない。しかし、一度のたくさんのものを購入すれば、買い物に行く回数を減らせるはずだ。必要なものの多くが自宅にあれば、外に出たときに買うべきものは少なくて済むし、選ぶ時間も短縮できる。日持ちのしないお肉と野菜とお魚をちゃちゃっと買って、すぐに店を出ることができるのだ。家事をする人なら誰でも分かることだ。トータルでみると、外出する人の数を減らすことができる。このことは感染抑制の効果を確実に高めることに結びつく。
そもそも非常時において、人々が商品の買いだめに走るのはごく自然なことだ。もし外出を控えようと訴えたいなら、本来政府は供給体制の拡充を指導して、買いだめを支援し、促進したほうがいいはずだ。メーカーは自社製品が備蓄に適したものであることをアピールすべきだし、小売店や物流業者も自社の供給力を目一杯拡充して収益拡大を競うべきタイミングだ。であるにもかかわらず、国を挙げて買いだめを思い留まらせようというのは、どう考えても異常なことだ。
政府が人々に買いだめを思い留まらせようとするのは、必要な物資が品切れになって買えなくなる可能性を危惧するからだ。しかしこれはこの非常時においても物流網を一時的に増強するための手立てを何も講じないことを前提としている。一度商品が不足し始めると人々の不安心理が掻き立てられ、買い占めが進み、状況がますます悪化する可能性も危惧される。しかしこれも不足し始めた商品の販売量を制御する工夫を何ひとつ行わないことを前提としている。いずれの見通しも思考が停止した人が惰性で導く結論だ。買いだめを自粛することが美徳であるかのように語られる論調は奇妙にも思われるが、無能な政府と共存するための呼びかけであるなら、それもひとつの考え方だ。ただこの非常事態においてこのような怠慢な人々に社会の舵取りを任せてよいものかと常々思う。
備蓄を推奨することの合理性
自宅に食料と日用品の備蓄があれば、自分が新型コロナウイルスに感染したことが事実上明らかになったにもかかわらず、病院にも宿泊施設にも収容されず、場合によっては検査すら受けられない状況に直面したとしても(こうした状況は既にありふれたものだ)、自宅で2週間なり1ヶ月なりの時間をなんとか耐え抜くことができるかもしれない。万が一、こうした商品を販売する店舗まで閉鎖せざるを得ない状況になったとしても、私たちの多くは何とかして生き延びることができる。いずれにしても、生き延びるのに必要な品物が手元にあることは、安心感の向上にも大変役立つ。
もちろんこのことは、ただちに備蓄を進めこれらの店舗をことごとく閉めるべきという話に結びつくわけではない。いくら備蓄をしていても、足りなくなったり、買い忘れていたり、急遽必要になったりするものも出てくるだろう。そんなときにも、開いている店があればそこで調達することができる。この安心感は非常に意味がある。必要かどうか分からないものまで買い込む人が増えれば、必要な人に届かなくなる可能性も無駄に高まることになるからだ。
基幹物流網はいまのところ感染拡大による大きな影響を受けないものと思われる。しかし、今日の状況では「想定外」の事態がいつどこで発生しても不思議でない。もしも物流拠点で集団感染が起こってしまうと、無視できない数のドライバーたちが休業を余儀なくされ、物流機能が低下した結果、人々の都市生活に大きな打撃がもたらされることになるかもしれない。
いざというときの備えとして小売店に在庫が持てればそれでいいのかもしれないが、大量の商品をストックしておけるほど大きなバックヤードを有する店舗は滅多にない。一般に日本人の住居は欧米人などの住居に比べて狭いことで知られるが、それでも最低限必要なものは各家庭にストックしておくほうが望ましい。トイレットペーパーやティッシュペーパーのように、嵩張る品物においてはなおさらだ。普段は効率的な「ジャスト・イン・タイム方式」(必要なものを、必要なときに、必要な量だけ仕入れるやりかた)も、危機においては脆弱だ。
ウイルスの変異が進むなどして感染拡大の影響がさらに深刻化すれば、流行を止めるために生活必需品や日用品の生産者や小売店にも操業停止・営業停止を求めざるを得なくなる局面も想定される。場合によっては、屋外にテントを出して生鮮食品だけを販売する、あるいはパッケージ化された生鮮食品の詰め合わせをドライブスルーや配送のみで買えるようにするなど、店舗の営業を大幅に縮小する方法が必要になることも考えられる。その際、人々のあいだで食料・日用品の備蓄が進んでいなければ大きな混乱が出てくるし、必要な準備期間も長くなる。支援が必要な人の数も増えるだろう。そもそも政策オプションとしての現実性がなくなり、その結果、悲劇的状況が避けられなくなる事態も起こりうる。人々のあいだである程度の備蓄が進んでいれば大胆な政策措置をとることが可能となる。
危機が長期化し、操業や営業の停止を求められる期間が長引けば、生産者や小売店も資金繰りに苦慮する場面が出てくるだろう。政府の支援策が機能するのにも時間がかかる見通しだ。人々の備蓄行動により売り上げが伸びれば、それだけ彼らの資金繰りに余裕ができる。売り上げを通じた収入は通常のスキームのなかで入ってくるものだ。たとえ消費の先食いということになったとしても、政府の支援が届くまでつなぐことができれば、生き延びられる可能性も高まることになる。
幸運にも、こうしたストックを消費することなく危機的状況が過ぎ去ったとしても、時間をかけて使用していけばいいだけのことだ。無駄にはならない。トイレットペーパーは5年経っても蒸発しない。賞味期限が1年もある飲食物は、あと半年過ぎたとしても問題なく消費できる場合がほとんどだ(ただし直射日光と高温・多湿には気をつけよう)。視覚と触覚が健在で、嗅覚と味覚に異常がないなら、おかしくなったら大体分かる。もちろん中長期的にみると、食品ロスの問題に焦点が当てられることは、多かれ少なかれあるかもしれない。しかしメーカーは、もし包装を少し変えるだけで賞味期限をあと半年延ばせるのであれば、異なるバージョンを提供するなどして、この動きに協力することができる。
品薄・品切れはコントロールできる
もちろん、どんなに対策をとっても棚から消える商品が出てくることはあるだろう。急に生産量や流通量を増やせない商品もたくさんあるからだ。最近でもマスクや紙製品が棚から消えたことは記憶に新しい。マスクは世界中で起きている爆発的な需要増に生産量の拡充が追いついていないから棚から消えた。製造機械の供給が間に合っていないので、マスク自体の生産量がなかなか増やせないのだ。機能を落とした代替品は次々と登場し始めているが、N95やサージカルマスクの供給不足は当面続くことになるだろう。
一方のトイレットペーパーやティッシュペーパーなどの紙製品は物流網が急速な需要増に対応できなかったから棚から消えた。「中国から原材料の紙が輸入できなくなる」というデマが原因といわれるが、これはただの引き金に過ぎず、もっと本質的な理由は、これらの紙製品が非常に嵩張る商品であるため、運送業者が取扱量を増やしにくいという事情があったためだ。買いだめしたい人の購買が一巡するとすぐに棚は満たされた。
しかし、これらはかなり特殊な例だ。通常、特定領域の商品群がことごとく棚から姿を消すような状況は滅多なことでは起こらない。特定商品の人気が急上昇して品薄・品切れになることは日常茶飯事だが、これによって生活が脅かされることはないはずだ。
では政府がほんの少し食料品と日用品の備蓄を推奨し、人々が少しずつ備蓄を始めたら、直ちに品薄・品切れの商品群が続発することになるだろうか。もちろん部分的にそうした状況が出てくることもあるだろう。しかし、「この品切れは備蓄の推奨が急に始まったからであって、原材料が不足する見通しがあるからではない、またすぐに入荷する」ということが説明できれば、人々が不安になることはない。誰も何も言わないまま、商品が棚から消えるのとはわけが違うのだ。また備蓄対象となる商品の範囲が広いため、特定の領域に需要が集中することにもなりにくい。
それでも品薄になった商品については、例えば「5,000円以上の購入につき、対象商品がひとつ買えます」などと店舗側でコントロールしておけば、品薄・品切れを回避できる可能性が高まる。他のものもたくさん買わなければならないとなると、あちこちの店を巡回しようというインセンティブも抑えられるし、備蓄の促進にも結びつく。入場制限で並ばなければならないようにしておけば、なおさらうまくいくだろう。人々が並ばなくて済むお店に足を運んでくれるなら、密集する人々を分散させる効果もある。
また、流通業者でも第三者機関でもいいから、品薄・品切れの兆候が出始めた商品についての情報をいち早く集約し、その傾向がどのレベルにあるかを広く小売店に共有するようにすれば、小売店のあいだでもある程度足並みを揃えた対策が可能となり、多くの消費者に行き渡る状況が維持されやすくなるはずだ。特に中長期的に輸入が途絶えそうな商品については早い目に手を打ったほうがいいだろう。
政治のリーダーのメッセージ
「賞味期限が半年以上の飲食物と日用品の購入を5割増やしましょう。そして小売店も仕入れを5割増やして下さい。物流業界も5割多く届けて下さい。全ての商品ではないんです。備蓄可能食品と日用品の流通に、より多くの資源を投入するよう、力を貸して下さい。でも5割です、それ以上は買わないで下さいね。買い物に行く回数が減らせるくらいでいいんです。長引きそうなら少しずつ増やして下さいね。急にお店が閉まったりはしませんので」。
例えば政府がそんな風に働きかければ、多くの問題を改善することができる。法改正も予算投入も必要ない。ただリーダーが方針を決めて働きかければそれでいいのだ。いますぐ準備が始められる。「5割増」といっても、実際の販売量が2倍か3倍くらいになる商品は出てくるだろう。しかし需要が急増する商品群は物流全体のなかのごく一部を占めるに過ぎず、選択・集中と効率化を行えば物流も対応できるはずだ。いざとなれば、あとで書くように、もっと強力な措置を取ることもできる。
しかし、残念なことに、政治のリーダーは正反対のメッセージを発信している。「食料や日用品を購入する店が閉まるわけじゃないので、あまり多くを買わないで下さい」、こんな風にいうわけだ。人々は不安なので、私がこのようなことを書くまでもなく、もともと少し買い置きを増やしたいと思っている。しかし、政治のリーダーはこれを抑えようとしているし、外出自粛も訴えている。これでは小売店としても、仕入れを増やしていいのか、減らしていいのか、よく分からなくなってしまう。人々も買いだめする人としない人とに別れてしまう。
買いだめ自粛の要求に従って購入量を抑制すれば、買い物に出掛ける回数を減らすことができないのだ。これは、外出を控えて欲しいというメッセージと明らかに矛盾する。「ちょっとずつ備蓄を増やそう」、このメッセージこそが人々を導くのに相応しいものであり、外出抑制の働きかけとも矛盾しないものだ。
物流はネックとならない
物流の限界を指摘する声もあるだろう。だがその認識は間違っている。そんな風に見えるのは、平時のスキームのなかでしか物事を動かそうとしていないからだ。納入業者が小売店の品出しや在庫管理を手伝うサービスを実施しているなら、当面これを停止して小売店に任せるなど、既存の業務フローを見直す余地は幾らでもあるはずだ。配送回数を減らして1回の配送量を増やすよう、小売店の協力を求めることもひとつの方法だ。イベント資材や引越荷物など普段は異なる荷物を扱っている会社に協力を求めることもできる。業界内での調整に限界が生じたなら、物流機能を一時的に増強するための手段を外部から調達する方法も考えるべきだ。
例えば、使われなくなった旅客バスの座席を取っ払えば軽量貨物を運搬する手段として使えるだろう(いまはドライバーも手が空いている)。貨物鉄道はもとより、経路がうまくはまるようなら、旅客鉄道が使える場面も少なくない。深夜はもちろん、専用スペースを設けるなどすれば小さなロットはいまなら日中でも運べるはずだ(大抵の駅には車椅子利用者のための経路が存在し、小さなカゴ車は問題なく運べる)。末端に近いところでは、軽トラックを所有する人々の力を借りることもできるだろう。これらはほんの一例だ。いずれにせよ、いまは失業や自宅待機という形で眠っている労働力は潤沢に存在するので、その気になれば幾らでも集められる(ライフラインの維持は不要不急の営みではないため働いて貰ってもいいはずだ)。
様々なオプションを視野におけば取扱量を増やす余地はいくらでもある。あとは経営手腕の問題だ。然るべき対策を講じれば、少なくとも物流がネックとなることはないはずだ(ネックになるのはむしろメーカーのほうだ)。
スーパーを息抜きの場にしてはいけない
もちろん自宅に居続けることに疲れた人にとって、買い物をする時間は息抜きの手段として大きな役割を果たしていることだろう。日頃からショッピングが大好きな人たちはもちろん、普段は滅多にスーパーに足を踏み入れない人にとっても、とてもよい気分転換となるはずだ。なかには家族で訪れる人たちも少なくない。その気持ちはとてもよく分かる。しかし、本当に感染拡大を止めようとするのなら、スーパーやコンビニ、ドラッグストア、商店街といった空間を気分転換の場として使って貰っては困るのだ。
不都合なことに、これらの小売店はとても感染リスクの高い場所であり、できれば閉鎖したほうがいい場所だ。どうしても気分転換が必要なら、然るべき対策をとって、ルールを決めたうえで、人の少ない道路や公園をブラブラしておいてもらったほうがずっといい。
ライフラインを維持するために不可欠だから開店を維持せざるを得ないというのが、いまの基本的な考え方である(本当に深刻化すれば別の選択も考えねばなるまいが…)。だとしても、店内での感染を防ぐうえで最大限の対策は講ずるべきだ。そうすることが人々にも「いまのお店は気分転換の場ではない」という認識を持って貰うことにも結びつく。
私たちにできること
もしリーダーが決断できない場合であっても、この動きは私たち自身によっても始めることができる。私たちがお互いに働きかければ、社会的な動きに発展させることができる。もしこれを読む人がこの考えに共感してくれたなら、自らの言葉で発信して、色々なコミュニティに伝えて欲しい。時間のない人はこのメッセージを共有してくれるだけでもいい(ただしこのサイトの文章はちょっと伝わりにくいかもしれない)。
一言でまとめると、みんながちょっとずつたくさん買えば、外出者が減って感染を止められるかもしれないし、お店も工場も助かるかもしれない、もしお店が閉まっても皆なんとか生き延びられるよね、ということだ。もちろん、いつもより少し多めに買っておく行動をすでに実践している人はたくさんいるだろう。もしかしたら、どこか後ろめたい気持ちを抱いているかもしれないが、もはやそんな必要は全くない。自分たちの使うものは堂々と買いだめして、外出自粛に協力しよう。